奈良県吉野郡大淀町佐名伝自治会 歴史・文学・産業・行事・イベント・活動内容などの紹介

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佐名伝自治会
奈良県吉野郡大淀町佐名伝
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花岡大学

 
明治42年〜昭和63年 児童文学者、小説家。奈良県吉野郡大淀町佐名伝の浄迎寺の住職の
次男として生まれ、如是と命名された。後の童話の舞台にもなる吉野川で幼年時代を送り、
文学書を耽読する。竜谷大学予科から、同大学文学部史学科に進み在学中から創作活動を続ける。
昭和9年卒業と同時に大岳と改名し、小学校教員をしながら、執筆活動を続けた。
昭和6年の童話集「おとうさんの手紙」によって世に認められる。
戦後「緑のランプ」「赤とんぼの空」などを出版。
35年「かたすみの満月」で小川未明文学奨励賞、36年「ゆうやけ学校」で小学館文学賞を受賞。



46年、京都女子大学教授に就任。この頃から仏典童話を積極的に
執筆する。童話以外では、評論集「児童文学の世界」「児童文学の探究」
伝記小説「妙好人 清九朗」など多数。

48年から個人雑誌「まゆ-ら」を刊行花岡が育った吉野川の渓谷と
高原に囲まれた、吉野の小さな村落は、創作に大きな影響を与え、
「おとうさんの手紙」「ゆうやけ学校」「鈴の話」「秋の金魚」
などの作品に実在の吉野の地名が用いられている。

吉野を抜きにしては、花岡文学は考えられないといえよう。
大淀町佐名伝の大阿太高原に童話碑がある。

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佐名伝の史跡(筆捨て岩・おいの池・灯とぼし)

 
●筆捨岩(佐名伝に伝わる昔話です)

佐名伝の南を流れる吉野川の清流のなかに、ふしぎな形、おもしろい形をした奇岩が屹立して、一つの巨大な島をなしている景色のすばらしくいい所がある。大水が出るたびに、その奇岩がくずれたり流されたりして、近年はおもしろさ美しさは少なくなっているが それでも現存しており、村の人達はこれを「筆捨岩」と呼んでいる。

昔、巨勢の金岡が佐名伝を通りかかって、この景色を見て心うたれ、これを絵に書きとどめておきたいと考えて、村に足をとどめて毎日写生に出かけた。ところが奇岩の写生にいくたびにその姿をかえているために、書き改めねばならず、数日そういうことを繰り替えしたがいつもいつも書き直しばかりで、どうしても絵を完成することができず、ついに筆を捨てて村を去ったと言う言い伝えからその呼び名があるわけである。岩が日々その姿を変えると見られる。

 
●おいの池(佐名伝に伝わる昔話です)

いつのころかははっきりせんが、ずっとずっと昔のことや。村の百姓嘉兵衛に、おいのという気だてのやさしい、きれいな娘がおったそうじゃ。はやく母親を失ってから、一家の女仕事は一手に引き受け、体の弱い嘉兵衛を助けて、田畑の仕事の助けもするっちゅうしっかり者でのう、近在近郷から、嫁に欲しいといってくるものも、いっぱいあったそうじゃがおいのはまだ早い早いといううて、ことわりつずけてきたそうな。ところが、ある年の暮れの夕方のことじゃ。おいのは父の用事で近くの村までいってきて、かえるころには日がとっぷりと暮れていたのじゃ。そして、村の入り口にまつってある地蔵さんの前までかえってくると、そこにうずくまって痛がっている一人の若い男を見つけた。

近づいてみると、すみぞめの衣を着た僧でにわかな腹痛で苦しんどった。そこからおいのの家はそんなに遠くなかったので、おいのはその若い僧を背負って家へつれてかえった。それから父の嘉兵衛と一緒に、薬を飲ませてやったり腹を押さえてやったりいろいろと手をつくしてやったそうじゃが、その甲斐があってその夜遅くに若い僧の病気は、うそみたいにようなってんと。「かたじけのうございます」と若い僧は、眼に涙さえうかべながらいうた。「私は南都興福寺で学問を続けている俊海というもの、いささか所用あって吉野山に立ち寄りここから高野にでようとしての道すがらの急病、おかげさまで一命をすくっていただきました。このご恩は生涯決して忘れません。が今は、修行の身、いつに日にか必ずお報いいたします。

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●灯ともし(灯とぼし)

1700年間に建てられたものと思われ、位置関係としては
村の中央部にあたり、村の東北の鎮守の森の神様を村の
中心部に仮り安置して、常に村中に鎮守の神様の守りを
受けようとした村びとの信仰の厚さをあらわすものと
いえよう。

どこの村にも伊勢講という集まりがあって伊勢参りを
致しましたが、その伊勢参りをした御利益があったので
その御利益を感謝して、この灯ともしを建てたと言う
説を唱える人達がいるが、佐名伝に限ってはそれは
間違いです。

伊勢街道は佐名伝の南の吉野川ぞいを通っており、
伊勢参りの御利益をあらわすものだとしたら
この灯ともしは伊勢街道の近くに建てられたはずで
あろう。