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大阿太高原・梨の栽培 |
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奈良県の梨というのは、一般にはあまり馴染みがないかも知れませんが、隣の薬水地区と共に、
何度かメディア等でも紹介されました。佐名伝では全戸の約3分の1が、梨栽培を営んでいます。
また、梨の花は、大淀町の町花にもなっていて、写真の通り、白い綺麗な花です。
大阿太高原は、標高150M〜200Mの高さにある丘陵地帯であり西・北は金剛・葛城山系からなり
東は竜門岳から高見山、南は大峰山系からはるか熊野山山へと連なっています。大阿太高原は、
その中にあって盆地上の高原形式になっており気温の温度差が激しく果樹栽培に適した気候です。
土質は強粘土質であり、見た目には赤土とよばれる色をしていてこの赤土にはミネラル分が
多く含まれており、梨の糖度を高める因となっている。他の生産地の追随を許さない糖度の高さと、
有機酸、香り成分が豊富に含まれ多汁で歯触り・舌触りがよく、その希少価値は絶対的なもので
あります。この良さは又先人たちの努力の賜物であろうか。今までは大阿太高原のブランドとして
高い評価を受けてきましたがこれからはグローバルな世界にふさわしく、全国版への飛躍を考えねば
なりません。 |
二十世紀梨のルーツ
二十世紀梨は、明治21年千葉県松戸市で松戸覚之助によって発見された偶発実生です。
当時13歳の覚之助少年が分家宅に立ち寄った帰り道、塵捨て場に小さい梨の苗木があるのを見つけ
興味をもったものでした。叔父さんに話してこの梨の苗木を譲り受け、父が経営する果樹園での栽培
を試みたのです。
思考錯誤の末、明治31年9月中旬初めて成熟した梨の果実を手に入れることが出来ました。この梨の
実は上品な甘さと、したたるほどの水気を持っており、従来のどの品種よりも優れているとおもった
覚之助は、農業分野に力のある人たちに梨を贈りこの梨の地位を確かなものにしたのでした。
しかしこの梨には品種名がありませんでした。その頃の青梨の優良品種であった「太白」にあやかって
「新太白」とよばれていましたが、有力な苗種商によって明治37年「二十世紀梨」と命名されました。
ルーツから大阿太高原へ
二十世紀梨を日本で最初に栽培したとされる奥徳平は、一家と共に明治19年大阪府から北海道夕張へと
移住、札幌農学校に入学したのでした。
最新の農業技術と情報を習得していく中で、これからの食生活が穀物・野菜を中心としたものから、
果物にも重点が置かれていくことを学んだと思います。
農業及び園芸の最新情報が集まる札幌農学校において、明治21年に松戸市で松戸覚之助によって発見
された梨の苗木の事を、誰よりも早く知っていたのでしょう。
この梨の品質が、将来的に有望だと思った徳平は自分で栽培する事を夢みたのでした。
北海道はこの梨の栽培には適さないと思った徳平は、この品種を栽培するのに適した土地を探しはじめ
ました。いろんな候補地がありましたが、縁あってこの大阿太高原での栽培が始まりました。
これは日本で始めての栽培の地でもありました。
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