奈良県吉野郡大淀町佐名伝自治会 歴史・文学・産業・行事・イベント・活動内容などの紹介

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佐名伝自治会
奈良県吉野郡大淀町佐名伝
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佐名伝の歴史

 

●佐名手の荘(さなてのしょう)

 佐名伝の「御霊神社」(ごりょうじんじゃ)が、佐名伝に分祀されたのが鎌倉時代と
考えられます。
嘉禎四年(1238年)何かの機縁があり、宇智郡一帯に「御霊神社」が十数ヶ所に分祀され
たと言われていて、その中の一つが村の鎮守として祀られている「御霊神社」であると
考えられます。
 神社が祀られるということは、「井上内親王」の縁起よりも、村に農耕が定着していて
一定の農業生産が行われていて、自然の恩恵に畏敬の念と感謝を抱いていたことから
神社を祀られたと思われます。
と言っても、現在のような神社ではなく素朴な社であったことでしょう。宗教的に施設が
出来たことは、そこに住む人々の帰属意識や郷土への愛着が高まってのことと
考えられます。

 さらに、山口県仙崎に所有されていた「称林寺梵鐘」が鋳造されたのが正法二年
(1283年)のことでした。このことから、佐名伝に「称林寺」という寺院が建立されていたことが
伺えます。
「称林寺梵鐘」を見ると80cm足らずの梵鐘とは言うものの、鐘の相が整っています。
当時とすれば、大きな寄進であったと思われますが、それ以上にこの様な梵鐘を必要とする
寺院が存在していたということに驚きを感じます。
 このことと併せて、佐名伝の古い垣内に「堂の上」「長塀」「門前」「門後」
「古屋敷(古寺跡)」「三軒屋」などの呼称が残っていて、この寺院と何らかの関連があると
考えられます。
(「称林寺梵鐘」の問い合わせがあった昭和40年のころより以前に、「佐名伝には昔、
お寺があった」と言い伝えられて来ました。)
 13世紀のこの二つの事項を合わせて見ると、社会的にも経済的にも安定した村落を
形成されていたと考えられます。寺院建立は何れかの寄進者によるものと考えられますが、
寄進される縁は豊かな財力のある人と土地がかかわっていることが通例ですから、当時と
すればそのような環境が整い経済的に恵まれた土地であったと考えられます。
 このころの記録として「三箇院家抄」に「興福寺大乗院領荘園の宇野氏の付属地として
佐名手」が記されています。この記録から、佐名伝は興福寺大乗院領の荘園であったことが
伺えます。
 最近、「佐名手」の苗字を持つ人が訪ねてこられました。「私のご先祖様は、
大和の吉野出身です。」とのことでした。おそらく昔に佐名伝から出身された家なのでしょう。
これらのことから、佐名伝の
表記が「佐名手」と記されていて、他にも佐名手の表記があることから、旧表記は「佐名手」
であったと考えます。

 亨徳3年(1454年)・明応9年(1500年)等の碑文がある「一石五輪塔」が百合尾墓地
(佐名伝共同墓地)に祀られています。これらの古い五輪塔は昭和25年頃に旧佛眼寺
境内の寺川に沿った墓地から移転されたものです。旧佛眼寺境内は、旧垣内名では
古屋敷とか
古寺跡と呼称されていた土地で、何らかの寺院のお堂があったのではと推察するところ
です。
 平成13年に「佛眼寺本尊」を修復したとき、関係した仏師より「約1500年前後に造られた
仏像と思われます。」との報告を受け、先の「一石五輪塔」と併せて佛眼寺開山より先に
安置されていたのではないかと思われます。
 菩提山慈心院佛眼寺が開山されたのが永禄13年(1570年)6月1日と伝えられて
いましたから、仏像を迎えた堂が元となり寺院になったのではないかと考えます。
この創建当時の佛眼寺は、四間四面の本堂と六畳2間とかまど・炊事場で男僧寺院で
あったと考えます。
(平成13年本堂撤去後の以前の柱石の石組みにより判明)創建年号は総本山知恩院蔵
「蓮門精舎旧詞」に記されている。
(平成23年に判明)のと同じく、平成13年に撥遺した旧本堂の棟木に初代の
本堂建立年月日が直書されていた年月日と一致していました天正16年(1588年)の
「一石五輪塔」が浄土院にあり、この寺院も16世紀に建立されたとかんがえられます。
 
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佐名伝遺跡

 
昭和52年に木材市場とその下の国道あたりを工事中に見つかった、縄文時代前期、
紀元前1000から700年の遺跡です。しかし、きちんとした考古学発掘調査をしていないため、
詳細はよくわかっていません。また、佐名伝の村の下にも手付かずの遺跡がまだ
埋もれている可能性もあります。

平成15年調査
平成15年、個人住宅建築予定地を奈良県立橿原考古学研究所が調査。
結果、かまどを伴う竪穴式住居を確認しました。竪穴住居は、5×5.5mの方形で、
主柱穴4基。出土遺物から、古墳時代後期に位置づけられます。遺物は少なく、
須恵器杯身の小片を検出。鎌や釘状鉄器、石錐、石棒など検出されています。


                                    
                                寄贈 阪口勝之氏

今回の発掘調査で、縄文時代・弥生時代の状況は依然としてよくわからないが、
古墳から奈良時代にかけて断続的に集落の営まれたことが確認できました。
竪穴式住居を伴う集落は現地点から、南東側・北西側へと広がっていたものと
考えられます。
(橿原考古学研究所『奈良県遺跡調査概報2003年』別冊より抜粋)

この調査の際、佐名伝公民館所蔵の縄文石器についても紹介されています。

●定角式磨製石斧
右半分の刃の部分は、表裏面および両側縁とともに丁寧な研磨によって整形されている。
刃の先端は使用によるものと考えられる欠損部が認められる。
長さ11.6cm、幅5.8cm、厚さ3.25cm、330g

●磨石
全体的に滑らかな表面をもつ。あまり使用痕は認められない。
長さ9.5cm、幅1.5cm

●敲石(石棒残欠)
中央部に敲打痕跡をもつほか側縁部にも敲打痕跡をもつ。
形状・石材からすると、石棒からの転用ということも推測される。